雑記

証明写真を撮った。
その日に撮るつもりではなかったので、眼鏡をかけて化粧もしていなかった。さすがにこのまま撮るのはよろしくないと思い、レッドブラウンのリップを塗ったが、写真に写ったのはなんとも美しくない50代くらいの女だった。ヒステリックな日本史か古典の教師みたい。
実際の私の仕事は一応「先生」なのだから、先生っぽく見えるのはいいのかもしれない。でも私はこんな不満そうな顔をしたおばさんに色々教えてもらいたくない。

マッチングアプリでは加工した写真と痩せていたときの写真と、胸元を強調した写真を載せていて、バカみたいにメッセージつきいいねが来る。
そして、21歳のときに浮気していた相手からいいねが来ていた。
離婚して別居中の子供がいる彼は、15年前のことなんて覚えていないだろう。深夜、会いたいときだけ呼び出して、大人しく来た女のことなんて覚えていないだろう。
彼はたぶんまったく私に興味がなかった。私は自分に興味がないけど、一応は受け入れてくれる男性と関わるとある意味落ち着くのだ。彼らは私を傷つけるようなことは言わない。もちろん喜ぶようなことも言わないけど。
横に人がいるのに顔色をまったく見ることはなく、よく自分の話が出来るな、羨ましいな、と思って終わる。こう書くと嫌味ったらしい感じなのだけれど、自分に何かを過度に求めてくる人よりはいいのだ。
こういう人に尽くす生活も悪くないのかな、と何度か思ったこともある。でも嫌だな、やっぱり。
「私のこと覚えてる?」とは聞きたくない。都合のいい女として覚えられていることも、都合のいい女だったから忘れられていることも、同じくらい気分を悪くするだろう。いや、彼は何だかんだで覚えているような気がする。顔は忘れたと思うが。

Adoの「うっせぇわ」が流行り、「子供に聞かせたくない」だの、「安易な表現」だの言われている。安易な表現であることは置いておいて、そんなに皆綺麗な言葉だけ使って生活しているのだろうか? と疑問に思ってしまう。
私は16歳まで、人に対して「死ね」と言っている人を見たことがなかった。しかし、高校を留年して1つ下の同級生になった女の子達は、 平気でそう言っていた。驚いた。
田舎の中学校でほとんど本を読んで過ごしたから、10代の人の言葉をあまり聞いていなかったのかもしれない。しゃべると「おばあちゃんみたい」と言われたことも多かった気がする。
今はネットを開けば汚い言葉なんていくらでも溢れていて、私もそれにすっかり染まっていて、仕方のないことなのではないか、と思ってしまうのだ。

片想いしている男性の話を聞く。まともな大人の男性というのは、こんなに誠実に片想いの女性に対して振る舞うのか、と思う。
そして私は大切にされる未来がまだ想像できない。
この男性も、片想いされている女性も、色んなことから逃げずに生きてきたんだろうな。だから、ギフトみたいに出会いがあったんだろう。逃避の先に埋めるような相手を見つけたところで、業が増えるだけだ。
そんな私は今日も、布団でだらだらと午前中を過ごしてしまった。