雨とカフェオレと胃もたれ

カフェオレもドーナツも苦手なのに、ミスドの雰囲気が好きで、失くなってほしくないなぁと思う。
こういう好きがお店とかものだけではなくて、人に対して持てたら、もっと色々変わるのかもしれない。でも私は見た目が好みの人が好きだし、内面に惹かれたから好きになったという経験がまだない。恋愛対象を異性だけとするなら、私にとってはその異性に好かれるかどうかだけが切実なことで、相手のことをちゃんと見ることが出来ないのだと思う。
じゃあ同性だったらどうか? というと、同性への気持ちは崇拝に似ている気がする。ただ、美しさにひれ伏すのみで、彼女たちを所有したいとかされたいとか、そのような気持ちは持たない。

高校のとき好きだった女の子は、折れそうに細くて、目がとても大きくて、話し方が好きだった。とても努力家で、押しつけがましくない優しさがあり、今思うと、他のクラスメイトよりは大人びているところがあったかもしれない。
私は彼女のスカートをよく捲っていた。小学生の男子みたいだった。
好意があることを彼女は気付いていたんだと思うけど、付き合ってほしいと言うこともなく、彼氏もいたので、本気だとは思われていなかったのかもしれない。
数年後、高校を卒業してから、彼女の家に泊めてもらったことがあった。私は北関東在住だったのだが、神奈川で仕事の研修を受ける必要があって、通うのが大変だったためだ。
私は仕事に行きたくないとごねて、彼女は宥めてくれて、彼女の作った朝御飯を食べて、私は仕事に行った。今思い出すと涙が出そうなくらいに幸せな思い出だと思う。
職場にいる上司を好きになったこともある。天使とか妖精みたいな人だと思った。ふんわりした腰の近くまである明るい色のロングヘアと、白い肌と、キラキラした瞳。鈴の音のような声。
彼女は不機嫌な顔をしているのを見たことがない。本当に天使とか妖精みたいに、ふわふわと仕事をこなしていくのだ。
最後に好きになったのも職場の女の子で、エキゾチックな美人だった。あまり人と群れようとせず、口数も多くなく、ヘビースモーカーだった。私は彼女だけに過剰にデレデレしていたと思うので、周りの人に少しだけからかわれたことがある。

高校のときに、ネットで知り合ったレズビアンの女性に相談をしていたが、「とりあえず一線を越えてしまえばいいのよ」と言われていた。でも私は、そういうことがしたかったわけじゃない。彼女に限らず、好意を持つ女性や、好きな芸能人に対してだってそうだ。
異性同性に限らず、なぜ好きなら一線を越えたいものだと、体を重ねたいものだと決めつけるんだろう?

LGBTは知られるようになったが、恋愛(と呼んでいいのかも分からない)の形の多様性はなかなか認められないものなのだろうと、つくづく思うのである。